どうも(*・ω・)ノ
発達障害と診断されて以降、発達障害を中核とした様々な医学的あるいは精神医学的な学習を行っている私ではありますが、その学習範囲ってのは、とんでもなく広くなっていたりします。
特に精神医学系統からのアプローチを、自分が活用できる範囲で手広く行おうとしているんだけれど、これがいろいろとやっかいでして。
と、いうのも、自分自身の(脳の)特性を知ったうえで、どのようにすればうまくいくのか、ってのを検討しているんだけれど、その方法というのも三者三様。
それも、私の場合、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)とADHDの2つの特性を併発しているもんだから、この両方の学習を進める必要があるんだわ。
しかもこのふたつの障害は、その特性が相反するものが含まれていて、時には自閉症の傾向が、時にはADHDの特性が強く出る、という感じになってる。
何がどのように相反するか、ってのは、またいずれの話にするとして。
自分自身の特性について、これからも勉強を進めていくつもりだけれど、その勉強を進めていると、自分で自分が面倒くさいと思ったりもする。まあ、しょうがないんだけどね。
発達障害は「障害」じゃない?
さてさて。
この、発達障害についてだけれど、この、発達障害の、「障害」という言葉について、イメージが悪いので使うべきではない、また別の言葉を使うべきなんじゃないか、って話がちらほら聞こえてきているんだ。
だって、その、発達障害と診断された当の本人からすると、他人から見て障害があると言われても、自分にとっては、その障害があることが当たり前だし、そもそも脳の異常による障害であることから、一目でわかるような特徴みたいなのはほとんどない。
そのほかいろんな理由から、発達障害を、障害ではなく個性としてみてほしい、という感じで考えているみたい。
私も、発達障害と診断されるまで、私が発達障害者である、なんてわからなかったし、それに、私ではなく周囲の人たちのほうがおかしいとも考えていたからね(これは、私が、論理的思考に特化しているからで、かつ、冷静さを欠いて感情的になった上で物事を判断すると、必ず間違った結果になると若いころ勉強したから、ってのもある)。
もっとも、発達障害についての理解を深めるにつれ、私と健常者とでは、ここまで差があるのかと、今でも愕然としてたり、悩んでたりはするんだけれど。誰が好き好んで発達障害者になりたいと思うか、って感じで、今でも自分自身に対していろいろと憤りを覚えてたりもするよ。
その上で、私なりの考えについて、あえてブログで書いてみよう、とまあ、こういうわけ。
もちろん、これは私自身の考え方だし、その考え方を押し付けるつもりはないんだけれど、それを踏まえ、他の発達障害者に対して、かなりきつい言い方をさせてもらおうとも思ってる。
ただ、その意見を伝えるために、いろいろと話をしていかなければならないので、シリーズ化して話をしていくことにします。
そもそも、「障害者」って何?
さて。
発達障害ってのは、「障害」として区分けされていることはご存知のとおりだけれど、そもそも「障害」って何なのかについて、考えたことがある人って、どれだけいるのだろうかと思う。
ひとくちに「障害」、この場合は「障害者」と表記するほうがいいと思うけれど、ともあれちとこのあたりをまず整理してみたい。
障害者の定義については、Wikipediaの、「障害者」の記事に、次のように書かれている。
この、「何らかの原因」って部分に対しては、基本的に疾病や疾患はあまり含まれていないわけだけれど(重度疾患についても障害として認定されているものもいろいろとあるけれど、そのあたりの細かいことは今回の話には蛇足となるので割愛)、ともあれ、健常者と比較して、生活にいろいろと不便があるのは、これは「障害者」に共通していることだと言える。
また、Wikipediaの、「障害者」の記事には、WHOの定義の日本語訳が書かれている。こちらのほうが、ちと言葉は難しいけど、具体的で理解しやすいかも。
身体障害者は、ある意味見た目で判りやすい
まず、ここで、身体障害者に対しての上記説明を当てはめてみる。とはいえ、身体障害にも様々あって、目で見えるような状態の身体障害と、内臓疾患などの、見た目ではわからない身体障害の二通りある。
今回は、見た目でわかりやすい身体障害者を例に挙げさせてもらう。
なお、誤解のないように伝えておくけれど、身体障害者を例に出すのは、身体障害者を侮辱する等といった、社会的見地からする悪意は一切なく、あくまでも説明しやすい対象として選んでいるだけであることを理解していただきたく思う。
さて。
身体の欠損として、見た目でわかりやすい例としてあげると、「手が欠損している」「足が不自由」というのは典型的な例だと思う。
特に、車椅子を使用されている方に対しては、見た目で、「足が不自由なんだな」とすぐ判るはずだ。
この、足が不自由なことに対しては、どのように「活動の制約」があるのかはわかりやすい。要するに、「両足で歩くことが困難」なんだから。
ちなみに、足が不自由ということと、歩行が不可能というのは同じ意味じゃないよ。たとえば、洋式トイレに移動するくらいはなんとかなる、という方でも、車椅子の使用が必須であるのは、容易に想像できると思う。
ただ、残念なことに、上記のように、少しだけでも歩くことができれば、その場面だけを指差して、それなら車椅子なんていらないじゃないか、と言う人も、けっこういるんだわ。
この、上記のような、悪意の有無にかかわらず、その場面だけを見てそのように考える方は非常に多く、発達障害者も、そうした他者からの、「その場面しか見ていないだけで完璧にできていると考える」という行為には、非常にうんざりしているわけだけれど、それはさておき。
このように、身体障害者は、見た目で判断できる場合が多いだけでなく、その身体の欠損に対して、どのような不便があるかを、健常者は容易に想像ができるんだわ。
もっとも、上記の表現は、正確ではない。健常者が容易に想像できる身体障害ってのは、たとえば、手足の欠損、視覚障害、聴覚障害の、この4つに限られているんじゃないかな。
足が不自由な方に共通していること
さてさて。
この、足が不自由な方に限定して、考えを掘り下げていくよ。
足が不自由な方といっても、どのように不自由なのかは人それぞれ。
足がなんらかの理由で欠損している場合は、そもそも足がないのだから歩行できないというのは判るよね。
んでも、両足ともにそろっていても、脳や神経などの異状により、足が動かない場合と、わずかに力は入るものの、自分の身体を支えるだけの力が入らない場合、ほんのわずかであれば何とか歩ける場合などなど、いろいろある。
そんな方々が、移動をスムーズに行うためにはどうすればいいか。誰かにおぶってもらうこともあるだろうけれど、自力で移動する場合は、車椅子を利用することで、ある程度解決できる(杖を使用するなどの例もあるけれど、今回はその事例には触れません)。
だけれど、あくまでも「ある程度」であって、二足歩行できる自分たちと同じように移動できるわけではないよね。
特に階段などの段差がある場合は、自力でその段差を乗り越えることはほぼ不可能となってしまう。なので、エレベーターなどが利用できない場合、誰かに手伝ってもらったり、あるいは手ではいずってでも、って感じにするしかない。
最近では、バリアフリーも、施設に関しては進んできてはいる。だけれど、一般道に関して言うと、たとえば交差点で横断歩道を渡ろうとした場合、横断歩道に一度降りて、歩道に移動するために、歩道にあるその段差を乗り越えなければならない。つまり、道路のバリアフリーに関しては、いまだに進んでいない、ということが言える。
それに、あくまでも座った状態での移動になるため、たとえばスーパーに行ったときは、高い位置にある商品を取ることが難しかったりもする。そのため、店員さんや、場合によっては近くのお客さんにとってもらうようお願いしなきゃいけない。
このように、普通に二足歩行ができる、(一応)私を含む健常者からすると、ごく当たり前のことが、足が不自由な方には難しい。そのため、車椅子などの道具を利用すること、そして誰かの手を借りることが必要となってくる。これは、健常者には、その必要がないことばかりだ。
言い方をかえると、足の不自由な方は、足が不自由な分だけ、健常者よりも、実生活において、いろいろと不便がある、と言えるよね。
身体障害者に共通して言えること
さて、上記のように、足に障害を抱えている人を例としてあげたわけだけれど、これは身体障害者すべてに対して、同じことが言える。
手が不自由な方は、何かを持つことが難しい。
中には、先天性の障害により両手がない方もいるんだけれど。
とある方に関しては、映画化もされているので、ご存知の人もいらっしゃるのかも知れないんじゃないかな。
この、両手がない状態に関しても、どのように不便なのかは、容易に想像できるんじゃないかな。
同様に、目が不自由な場合、耳が不自由な場合に関しても、だ。
もっとも。
容易に想像できはするけれど、実際の大変さについては、その当事者でなければわからない。
んでも、そうして想像できるから、その大変さを少しでも手伝えるよう、その時に応じて配慮あるいは手伝いをすることはできるよね。そのときだけ、であったとしても、ね。
余談・白い杖を使用されている方の場合
上記は、あくまでも、第三者からみても判りやすい障害だった。
同じ身体障害者でも、中には心臓や腎臓などの内臓器官に異常があるために身体障害者として認定されている方もいらっしゃり、そうした方は見た目では判らない。
また、これは私も最近知って驚いたことだけれど、白い杖をついている方は視覚に障害があるわけだが、だからといって完全に盲目というわけではないそうだ。はっきりとものが見えているわけでないけれど、ある程度の障害物の見分けはできるらしい。
要するに、白い杖は、それだけ目が不自由であるとアピールするツールでもあるわけだが、一方で、白い杖を使用しているイコール完全に盲目ではない、でも盲目じゃないから白い杖を使用してはいけない、なんてことはなく、むしろ使用すべきなんだそうだ。
ここまでのまとめ
ってなわけで。
いろいろと書いてきたけれど、身体障害者の特徴として、私は次の共通項があると考える。完全にまとめきっているわけじゃないけど。
この、「障害者にとっては当たり前」というのが、非常に大きなポイントだと私は思ってる。
そして、このことが、私が、すべての発達障害者に対して伝えたいことにつながるんだけれど、その話は、次回ということで。
本題とは関係ないけど、このコミック、いろいろと面白かったもんで紹介しますね~
発達障害と診断されて以降、発達障害を中核とした様々な医学的あるいは精神医学的な学習を行っている私ではありますが、その学習範囲ってのは、とんでもなく広くなっていたりします。
特に精神医学系統からのアプローチを、自分が活用できる範囲で手広く行おうとしているんだけれど、これがいろいろとやっかいでして。
と、いうのも、自分自身の(脳の)特性を知ったうえで、どのようにすればうまくいくのか、ってのを検討しているんだけれど、その方法というのも三者三様。
それも、私の場合、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)とADHDの2つの特性を併発しているもんだから、この両方の学習を進める必要があるんだわ。
しかもこのふたつの障害は、その特性が相反するものが含まれていて、時には自閉症の傾向が、時にはADHDの特性が強く出る、という感じになってる。
何がどのように相反するか、ってのは、またいずれの話にするとして。
自分自身の特性について、これからも勉強を進めていくつもりだけれど、その勉強を進めていると、自分で自分が面倒くさいと思ったりもする。まあ、しょうがないんだけどね。
発達障害は「障害」じゃない?
さてさて。
この、発達障害についてだけれど、この、発達障害の、「障害」という言葉について、イメージが悪いので使うべきではない、また別の言葉を使うべきなんじゃないか、って話がちらほら聞こえてきているんだ。
だって、その、発達障害と診断された当の本人からすると、他人から見て障害があると言われても、自分にとっては、その障害があることが当たり前だし、そもそも脳の異常による障害であることから、一目でわかるような特徴みたいなのはほとんどない。
そのほかいろんな理由から、発達障害を、障害ではなく個性としてみてほしい、という感じで考えているみたい。
私も、発達障害と診断されるまで、私が発達障害者である、なんてわからなかったし、それに、私ではなく周囲の人たちのほうがおかしいとも考えていたからね(これは、私が、論理的思考に特化しているからで、かつ、冷静さを欠いて感情的になった上で物事を判断すると、必ず間違った結果になると若いころ勉強したから、ってのもある)。
もっとも、発達障害についての理解を深めるにつれ、私と健常者とでは、ここまで差があるのかと、今でも愕然としてたり、悩んでたりはするんだけれど。誰が好き好んで発達障害者になりたいと思うか、って感じで、今でも自分自身に対していろいろと憤りを覚えてたりもするよ。
その上で、私なりの考えについて、あえてブログで書いてみよう、とまあ、こういうわけ。
もちろん、これは私自身の考え方だし、その考え方を押し付けるつもりはないんだけれど、それを踏まえ、他の発達障害者に対して、かなりきつい言い方をさせてもらおうとも思ってる。
ただ、その意見を伝えるために、いろいろと話をしていかなければならないので、シリーズ化して話をしていくことにします。
そもそも、「障害者」って何?
さて。
発達障害ってのは、「障害」として区分けされていることはご存知のとおりだけれど、そもそも「障害」って何なのかについて、考えたことがある人って、どれだけいるのだろうかと思う。
ひとくちに「障害」、この場合は「障害者」と表記するほうがいいと思うけれど、ともあれちとこのあたりをまず整理してみたい。
障害者の定義については、Wikipediaの、「障害者」の記事に、次のように書かれている。
障害者(しょうがいしゃ、英: disability, handicapped)は、何らかの原因によって日常生活または社会生活に影響の出るような制限を受けている人物のこと。 児童福祉法の規定の関係上、18歳未満の場合は障害児という場合がある。この記事からわかるように、健常者と比べて、「何らかの原因によって日常生活または社会生活に影響の出るような制限を受けている」ことが、障害者の定義となっているね。
この、「何らかの原因」って部分に対しては、基本的に疾病や疾患はあまり含まれていないわけだけれど(重度疾患についても障害として認定されているものもいろいろとあるけれど、そのあたりの細かいことは今回の話には蛇足となるので割愛)、ともあれ、健常者と比較して、生活にいろいろと不便があるのは、これは「障害者」に共通していることだと言える。
また、Wikipediaの、「障害者」の記事には、WHOの定義の日本語訳が書かれている。こちらのほうが、ちと言葉は難しいけど、具体的で理解しやすいかも。
障害とは、身体の損傷、活動の制約、参加の制限が含まれる包括的な用語である。損傷は身体における機能もしくは構造に対するものを指し、活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。したがって、障害は複雑な現象であり、ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映である。さて、ここで私が一番に伝えたいのが、上記用語における「身体の欠損」という部分についてなんだわ。
身体障害者は、ある意味見た目で判りやすい
まず、ここで、身体障害者に対しての上記説明を当てはめてみる。とはいえ、身体障害にも様々あって、目で見えるような状態の身体障害と、内臓疾患などの、見た目ではわからない身体障害の二通りある。
今回は、見た目でわかりやすい身体障害者を例に挙げさせてもらう。
なお、誤解のないように伝えておくけれど、身体障害者を例に出すのは、身体障害者を侮辱する等といった、社会的見地からする悪意は一切なく、あくまでも説明しやすい対象として選んでいるだけであることを理解していただきたく思う。
さて。
身体の欠損として、見た目でわかりやすい例としてあげると、「手が欠損している」「足が不自由」というのは典型的な例だと思う。
特に、車椅子を使用されている方に対しては、見た目で、「足が不自由なんだな」とすぐ判るはずだ。
この、足が不自由なことに対しては、どのように「活動の制約」があるのかはわかりやすい。要するに、「両足で歩くことが困難」なんだから。
ちなみに、足が不自由ということと、歩行が不可能というのは同じ意味じゃないよ。たとえば、洋式トイレに移動するくらいはなんとかなる、という方でも、車椅子の使用が必須であるのは、容易に想像できると思う。
ただ、残念なことに、上記のように、少しだけでも歩くことができれば、その場面だけを指差して、それなら車椅子なんていらないじゃないか、と言う人も、けっこういるんだわ。
この、上記のような、悪意の有無にかかわらず、その場面だけを見てそのように考える方は非常に多く、発達障害者も、そうした他者からの、「その場面しか見ていないだけで完璧にできていると考える」という行為には、非常にうんざりしているわけだけれど、それはさておき。
このように、身体障害者は、見た目で判断できる場合が多いだけでなく、その身体の欠損に対して、どのような不便があるかを、健常者は容易に想像ができるんだわ。
もっとも、上記の表現は、正確ではない。健常者が容易に想像できる身体障害ってのは、たとえば、手足の欠損、視覚障害、聴覚障害の、この4つに限られているんじゃないかな。
足が不自由な方に共通していること
さてさて。
この、足が不自由な方に限定して、考えを掘り下げていくよ。
足が不自由な方といっても、どのように不自由なのかは人それぞれ。
足がなんらかの理由で欠損している場合は、そもそも足がないのだから歩行できないというのは判るよね。
んでも、両足ともにそろっていても、脳や神経などの異状により、足が動かない場合と、わずかに力は入るものの、自分の身体を支えるだけの力が入らない場合、ほんのわずかであれば何とか歩ける場合などなど、いろいろある。
そんな方々が、移動をスムーズに行うためにはどうすればいいか。誰かにおぶってもらうこともあるだろうけれど、自力で移動する場合は、車椅子を利用することで、ある程度解決できる(杖を使用するなどの例もあるけれど、今回はその事例には触れません)。
だけれど、あくまでも「ある程度」であって、二足歩行できる自分たちと同じように移動できるわけではないよね。
特に階段などの段差がある場合は、自力でその段差を乗り越えることはほぼ不可能となってしまう。なので、エレベーターなどが利用できない場合、誰かに手伝ってもらったり、あるいは手ではいずってでも、って感じにするしかない。
最近では、バリアフリーも、施設に関しては進んできてはいる。だけれど、一般道に関して言うと、たとえば交差点で横断歩道を渡ろうとした場合、横断歩道に一度降りて、歩道に移動するために、歩道にあるその段差を乗り越えなければならない。つまり、道路のバリアフリーに関しては、いまだに進んでいない、ということが言える。
それに、あくまでも座った状態での移動になるため、たとえばスーパーに行ったときは、高い位置にある商品を取ることが難しかったりもする。そのため、店員さんや、場合によっては近くのお客さんにとってもらうようお願いしなきゃいけない。
このように、普通に二足歩行ができる、(一応)私を含む健常者からすると、ごく当たり前のことが、足が不自由な方には難しい。そのため、車椅子などの道具を利用すること、そして誰かの手を借りることが必要となってくる。これは、健常者には、その必要がないことばかりだ。
言い方をかえると、足の不自由な方は、足が不自由な分だけ、健常者よりも、実生活において、いろいろと不便がある、と言えるよね。
身体障害者に共通して言えること
さて、上記のように、足に障害を抱えている人を例としてあげたわけだけれど、これは身体障害者すべてに対して、同じことが言える。
手が不自由な方は、何かを持つことが難しい。
中には、先天性の障害により両手がない方もいるんだけれど。
とある方に関しては、映画化もされているので、ご存知の人もいらっしゃるのかも知れないんじゃないかな。
この、両手がない状態に関しても、どのように不便なのかは、容易に想像できるんじゃないかな。
同様に、目が不自由な場合、耳が不自由な場合に関しても、だ。
もっとも。
容易に想像できはするけれど、実際の大変さについては、その当事者でなければわからない。
んでも、そうして想像できるから、その大変さを少しでも手伝えるよう、その時に応じて配慮あるいは手伝いをすることはできるよね。そのときだけ、であったとしても、ね。
余談・白い杖を使用されている方の場合
上記は、あくまでも、第三者からみても判りやすい障害だった。
同じ身体障害者でも、中には心臓や腎臓などの内臓器官に異常があるために身体障害者として認定されている方もいらっしゃり、そうした方は見た目では判らない。
また、これは私も最近知って驚いたことだけれど、白い杖をついている方は視覚に障害があるわけだが、だからといって完全に盲目というわけではないそうだ。はっきりとものが見えているわけでないけれど、ある程度の障害物の見分けはできるらしい。
要するに、白い杖は、それだけ目が不自由であるとアピールするツールでもあるわけだが、一方で、白い杖を使用しているイコール完全に盲目ではない、でも盲目じゃないから白い杖を使用してはいけない、なんてことはなく、むしろ使用すべきなんだそうだ。
ここまでのまとめ
ってなわけで。
いろいろと書いてきたけれど、身体障害者の特徴として、私は次の共通項があると考える。完全にまとめきっているわけじゃないけど。
- 健常者と同じことができない
- 特定の動作に関して、健常者では当たり前でも身体障害者には難しいものが多い
- 特定の動作に対して、道具あるいは人の手を借りる必要がある(あるいは、あきらめる)
- そのため、実生活あるいは社会生活において様々な制限を受ける。
- その制限のため、時間と手間が健常者に比べ余計にかかる。
この、「障害者にとっては当たり前」というのが、非常に大きなポイントだと私は思ってる。
そして、このことが、私が、すべての発達障害者に対して伝えたいことにつながるんだけれど、その話は、次回ということで。
本題とは関係ないけど、このコミック、いろいろと面白かったもんで紹介しますね~