大人の発達障害と向き合う静葉ちゃんの試験室

静葉ちゃんが、適当にいろんなことを書いてますよ。

カテゴリ : 発達障害

ドウモ( ・∀・)っ旦
ブログ記事は、メインPCだけでなく、タブレットPCでも執筆してたりします。
タブレットPCは、8インチのAndroid端末。こちらにATOKもインストールしているから、日本語入力環境はほぼ同じ。そのタブレットPCにキーボードとマウスを接続して使用している、とまあ、こういうわけ。
もっとも、メインPCと全く同じ環境でブログを執筆できるわけではなく、微妙に不便さはあるんだけれど、それでも、ただ単に文章を書くだけだったら、特に不便はなかったりします。
最近では、このタブレットPCをどのように使うかについて、色々と悩んでいたりもしますけれど、まあそれはさておき。

生放送中で受けた相談
さて、ニコ生で生放送をしていると、いろんな方から相談を受けることがある。その相談内容も様々なんだけれど、そんな中、とある会社のお偉いさんから、とある相談を受けたんだ。
採用した従業員は、診断を受けたわけではないんだけれど、発達障害の可能性があり、うまく業務をこなすことができない。どのようにすればいいのだろうか。
この相談を受けたときは、実のところ、現在のように発達障害と、それに関連するであろう様々な情報を掴んでいる状態ではなかった。その上で、次の事を伝えている。
  • 発達障害の診断を受けるよう会社から促すのは、会社とその従業員との信頼関係を構築してからのほうがいい
  • その従業員が、どのようにすればうまく業務をこなせるようになるのか、一緒に考えること
  • 実際に発達障害と診断された場合は、様々な福祉サービスを利用することができるので、会社としても積極的に取り入れるよう
現在の私が同じ相談を受けたら、当時よりさらに知識を得ている私であっても、同じ回答をしている。ただ、もっと細かいところを伝えていたのかもしれないけれどね。
また、それでもうまくいかない場合は、最悪、その従業員を切り捨てることも考えなければならない、というところまで伝えてある。これは会社としての利益を守るためでもあるし、また、その従業員にとっても、残酷な表現ではあるけれど有効だからなんだわ。
その後、どのようになったのかについては、私は知らないし、知る必要もないと思う。でも、双方にとっていい方向に進んでいるんじゃないかなと思っていたりもします。

アスペルガー者への仕事の指示の方法
さてさて。
自閉症スペクトラム障害、つまり自閉症やアスペルガー症候群の人へ、何らかの仕事を行わせる場合、これは健常者よりも、伝え方を工夫しなければならない。
これは、仕事のみならず、私生活についても同じ事が言えるわけだけれど、ともあれ、健常者側が、アスペルガー者に対して指示を行う場合、次のことを心がけて欲しい。
  1. あいまいな表現を避ける
  2. 指示は細かく行う
  3. 業務は細分化させひとつの業務だけに集中させる
  4. その仕事は何のためにあるのか理解させる
とりあえずは、この4点だ。
もちろん、個人差もあるんだけれど、大ざっぱに、この4つを心がけてくれるといいと思う。

あいまいな表現を避ける
自閉症スペクトラム障害の特性を持つものは、あいまいな表現、あやふやな表現を理解しづらい傾向がある。もちろん私もだよ。
たとえば、「適当にやっておけばいいから」という表現。この「適当」というのが、どのような状態なのか、自分たちは理解しづらいんだわ。
それよりも、コンピュータプログラムのように、きっちりと事細かく指示を出したほうがいい。
また、「適当」という表現をできるだけ用いず、「誤差」という表現が使える場合であれば誤差がどれくらいまでという感じで伝えると解りやすい。
その他、「もう少ししたらできる」という表現の、「もう少し」という表現も、その「もう少し」が、どれくらいの時間なのか判断がつかないんだ。なので、「あと5分くらいかなあ」って感じに、おおまかな目安を伝えてくれると安心できるし理解もできる、とまあ、こういうわけ。

指示は細かく行う
次に、指示の出し方についてだけれど、これも工夫が必要になってくるんだ。
「この仕事やっといてね」という感じで、普段なら指示を出して特に問題はないと思いがち。
でも、ただ単に「この仕事やっといてね」だけだと、その作業を終了させた後どのようにすればいいのかが伝わっていないので、その仕事が終わったあと、その指示を受けた者は事実上手持ちぶさたになってしまう可能性があるし、その他、色々と戸惑うことにもつながりかねないんだ。
なので、「この仕事を、○時までに仕上げて、仕上がったら一緒に確認するから声をかけて。解らないことがあったら○○さんに聞いてみてね。何かあったら私に相談しにきてもいいからね。」とかいう感じで、できるだけ細かく指示を出してあげたほうがいいんだ。
これは私自身の体験談になるんだけれど、とあるIT関係の訓練を受けていたことがあったんだ。
その訓練の場で、私は、全部、独学でやってのけた。資料も潤沢にあるし、自力で覚えることができるから。
ところが、だ。
私の隣に指導員がいて、その指導員に色々と相談しながら学習を進めるべきだった、でも何も相談しないから指導員が手持ちぶさたになってしまっていた、というのを聞かされた。そのときになってはじめて、「この人に聞いてよかったんだ」ということを理解した。つまり、誰かに聞いてもいい、ということを私は知らなかったし、気がつかなかった、ということになる。
そもそも、そうして「質問していい」という事を知らされていなかったものだから、質問するという手段があること自体気がつかなかったってわけ。
ただ、この場合、私自身が独学で学習できるだけの理解力があったのも原因ではあるんだけれど、その上で、そうして、「○○してもいい」ということを伝えておかなければ、そうした選択肢を思いつくことすらない、ってわけ。

業務は細分化させひとつの業務だけに集中させる
この項目は、「そんなもの当たり前でしょ」なんて思われるかもしれないけれど、これがけこう難しいんだわ。
たとえば、「これ、○○まで持って行って」という指示を出したとする。その上で、「あ、ついでにこれも」と指示を出した瞬間、混乱してしまうんだわ
上記の例は、きわめて単純な仕事だし、ついでの仕事を頼むってのも、特に珍しくはないはずだ。でも、こうした単純なことを追加するだけでも、非常に混乱してしまうってわけ。
なので、ひとつの業務を行わせているあいだは、できるだけその業務にだけ集中させ、追加で業務を与えないようにし向けたほうがいい。
あるいは、細かくミーティングを行い、作業の進展具合を確認しながら、どのようにすればいいのかを伝えていく、というのも有効な手段でもある。
さらに、行わせたい業務は、できればポストイットメモで書いて、それを渡すようにしておく、なんて手もある。
その他、様々な細かな工夫が必要になってくるんだけれど、ともあれ、そうして、今行っている、あるいは行わせようとしていること以外のことは伝えないこと、もし伝えなければならない場合は、メモあるいはメールなどの、文章で指示を出すようにすれば理解しやすくなる。

その仕事は何のためにあるのか理解させる
自分が行っている仕事は、いったい何の為のものなのか。それを理解できているかどうかで、生産性は格段に向上するんじゃないかな。
特に、アスペルガー者は、今行っている仕事が何の為のものなのか、それを理解できなければ、うまく動くことができない場合もあるんだわ。
これは、「あいまいな指示を避ける」という話にも関連していることで、その「目的」が何なのか理解できていない場合、なぜこの仕事を行う必要があるのかが解らい、これはモチベーションの低下にもつながってしまうことでもあるんだ。
要するに、その仕事の意義や意味を理解させる必要がある、ってわけ。
「とりあえずこれやっとけばいい」という感じで仕事をする、という感覚にはなかなかならないんだわ。

さらに大切なこと
とまあ、このように、4つの項目をざっと挙げてみたけれど、もちろん他にも様々な要素がある。
そして、もっとも大切なこと。
よく、仕事においては、「ホウレンソウ」が大切だと言われているよね。この場合の「ホウレンソウ」とは、「報告」「連絡」「相談」の、この3つのことなんだけれど、実はこのホウレンソウ、けっこう勘違いしている人が多い
このホウレンソウ、「部下は上司に対してホウレンソウを行うよう」なんてニュアンスで捉えているんじゃないかな。
ところが。これ、大きな間違いなんだ。
そもそも、「ホウレンソウ」を提唱した人は、「部下が上司にホウレンソウをしやすいよう環境を整えよう」としている。つまり、そうして、「報告」「連絡」「相談」をしやすくできるよう、上司は部下に配慮する責務がある、というわけだ。
そもそも、上司は部下を育てる責務があるわけだけれど、部下が発達障害者であるならなおさら、うまく業務を進行できるようにするために、その部下にある一定の配慮ができるよう取りはからう必要がある。
こうした配慮は、部下が発達障害者だからとかそういう感じではなく、部下ひとりひとりに、それぞれ違う配慮が必要になってくる。そしてそれは、「7つの習慣」でいうところの「信頼貯金」につながっていくんだ。
また、その上司本人がそれがうまくてきなくとも、ジョブコーチという制度があるので、そちらを頼ってみるのもいいんじゃないかな。

ところで。
ここまで、アスペルガー者に対しての、業務に関する伝え方について書いてきたけれど、これら項目を見て、違和感を感じた人もいるんじゃないかな。
と、いうのも、これらは、別に発達障害者相手ではなくとも、当たり前のことばかりだから
ところが、健常者の場合、細かく指示を出さなくとも、いわゆる「察する」ことで業務を遂行することができる。でも、アスペルガー者は、自分で判断できる要素が少ない場合、何をどうすればいいのか戸惑ってしまうし、あるいは、これまでの経験から、実際に業務で望むこと以外のことをやってしまう可能性もある。
それを避けるためにも、指示は細かくしたほうがいい。
中には、「それくらい自分で考えてやれ」なんて言う人もいるんだけれど、個人的には、そういう伝え方しかできない人は、部下が健常者だろうと発達障害者だろうと、人に指示する立場についてはいけないと思っているんだけどね。それは人に何かを伝える方法としては、やってはいけないことだと思うんだ。それよりも、一緒に考えよう、という感じで親身になってやれる人は、それだけ信頼関係も厚くなるんじゃないかな。







ドウモ( ・∀・)っ旦
発達障害と診断されて、ようやく3年が過ぎようとしている私ではあります。
診断されてしばらくは、「発達障害?何それおいしい?」って感じで、特に何も考えなかったんだけれど、数多くの医療関係者や福祉関係者さん達と関わっていくことで、それがいかに厳しい状況なのかを自覚していった次第。
今でも、発達障害に関する資料を読み解いていくと、絶望感しか出てこない、ってのが正直な感想ではあるんだけれど、それでも、自分自身のことだし、それに、私以外にも発達障害で悩んでいる方も多くいらっしゃるのだから、そうした方々への助力にもなれれば、なんて思っていたりもします。
特に私の場合、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)及びADHD、さらに思考特性も変わっているとのこと。さらにIQが平均値以上だとのことなんだけれど、このIQの高さが、かえって生きづらくなっているそうだ。
そんなこと言われてもなあ。

基本的に標準語を話してます
さてさて。
私の普段の話し言葉は、生まれも育ちも徳島であるにも関わらず標準語です。
これは、私が記憶を失った23歳の頃に、「これから色々な人と話す機会が多くなるのだから、阿波弁だと、徳島県人以外には通じない、なら、いろんな人とふつうに会話できるようになるためにも標準語を話そう」と決め、独学で話し言葉を練習していった、って経緯があるからだったりします。
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当時は、車で移動中はラジオを聴いていたり、また、実際に標準語でしゃべる練習を単独で行っていたりしました。
発音に間してはまだ微妙なところはあるみたいだけれど、んでも、徳島県人に、「あなたいったいどこの生まれですか」と聞かれることも多々あり、私が徳島生まれの徳島育ちだと伝えると、かなりびっくりされていたりもします。
一方、うちの家族とは、阿波弁で話すことのほうが多い。つまり、私の阿波弁は、私の家族以外には使うことがない、ということになるんです。

悦子と話すのも標準語!
そして、婚約者の悦子に対しても同じく。
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彼女と出会った当初から、現在でも、私は悦子には標準語で話しかけていて、よく悦子は、「阿波弁が私にうつらない」とかぼやいていたりもします。
もっとも、私の母親の阿波弁が少しうつっているようですが。たまに「いけるいける(大丈夫、おいしいの意味)」が飛び出していたり。
また、私自身も、まれに悦子の広島弁が意識せず出てくることがありますが、私がそうして無意識に使う広島弁は、ごくわずかです。
だいたい、広島弁、よくわからん(´・ω・`)
「たいぎー」とか「たわん」とか、いまでも言われても意味を思い出すまでタイムラグがあったりします、はい。

阿波弁はむしろは話せない?
そんな悦子との会話だけれど、悦子は、私に、よく阿波弁を使うよう伝えてくるんだけれど、実はこれがかなり難しい。
と、いうのも、確かに私の家族とは、自然に阿波弁で喋ることはあります(もっとも、そもそも家族と会う機会そのものが少ないのだけど)。
だけど、そう言われて、いざ阿波弁を話そうとしても、標準語を阿波弁に変換する作業みたいなのを頭の中でやってしまって、うまく話すことができないんですね。なんか、阿波弁で話すのが抵抗があるというかなんというか。
思考力が低下している時には、ふと阿波弁で話をしていることはあるものの、普段は、阿波弁を話すのに、強烈な抵抗があったりするわけです。

アスペルガー者は標準語で喋る特徴が?!
ってことで、ここで1冊の本を紹介。
僕がこの病気を乗りこえてきてわかったこと ~コミックエッセイ アスペルガー症候群との上手なつきあい方入門
西脇 俊二
宝島社
2015-03-20

この書籍では、アスペルガー症候群を抱えている方の思考傾向や、実際にアスペルガー者の方に、どのような工夫や訓練があるかなどが優しく解説されているのですが。
この書籍にも、しっかりと、「生まれ育った家族以外には標準語で話す」ことが書かれていたりします。
この書籍に書かれている部分を見て、「いや私成人してから自分で標準語を話す訓練したんだけれど」なんて思ったんだけれど、特に自閉症系統の障害を抱えている人は、標準語を話す傾向があるんだとか。
それも、恋人、あるいは結婚したあとも、そうして標準語を話す傾向があるようでして。
おもいっきり私のことやんけ(´・ω・`)
悦子とは、いまだに、標準語で話をしていますし、付き合いだした当初は他人行儀だとかなんとか、そんなこと言われたような記憶もあるんだけれど、ともかく、現在でも、相変わらず、悦子に対しても、ほぼ標準語(たまに広島弁)で話すようになっております、はい。

悦子に対してだけのしゃべり方がある?
ただ、前述のように、悦子と話をしているときだけは、ごくまれに、悦子が使っていた広島弁が出ることがあります。
もちろん、広島弁を使うことそのものは意識していないですし、それに、悦子とは、今でも阿波弁で話すことができない。
んでも、こうして、悦子と話をしているときだけ、たまに広島弁が出るってことは、悦子に対してだけの話し方を私が無意識のうちに行っているんじゃないかな、と思うわけ。

付き合いだした当初から色々あったし、それに私が発達障害だと解ったのは、悦子と出会って1年が過ぎたころ。
今でも、悦子がわざわざ私のところまで来てくれていたり、それにほぼ毎日、何らかの形で連絡を取り合っていたりして、いい付き合いをしてくれていると思う。
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悦子が私と別れると決めたらそれまでだと私は思っているんだけど、その上で、今でも私と付き合ってくれているんだから、すごいもんだよ。
もっとも、悦子の気苦労ってのは、計り知れないとも思う。
発達障害の夫を持つ妻の立場から、いろんな苦労話を聞いているし、(医学的にはそのような症例は無いとされているけれど)カサンドラ症候群になる可能性だってあり得る。
現在でも発達障害の勉強を続けているのは、可能な限り、付き合う上での悦子の負担を減らしたいからなんだけれど、うまくいっていないところも多いと正直思っていたりもするんだわ。
それに、私だって何もできないわけじゃない。悦子にできるだけ配慮するよう心がけているつもりだけれど、それでもうまくいっているとは言い難いと思う。
私と悦子、違うところだらけで、同じところがこれっぽっちもない。んでも、うまく付き合い続けられるのも悦子のおかげです、はい。

今後も、悦子に、阿波弁で話しかけることは、かなり難しいと思う。んでもまあ、悦子に対してだけの話し方がある、ってのに気がついたってのは、案外大きなポイントなのかもしれないね。



ドウモ( ・∀・)っ旦
発達障害関係の資料を読み進めるごとに、「ああ、やっぱり私は健常者ではないんだな」とかいう感じで絶望感に襲われてしまっております。
発達障害は、脳の先天性の障害なので、病気のように「回復する」という概念がなく、むしろ障害がある状態が、自分にとっては正常なものだから、その正常な状態が「改善する」なんてことは医学的にはあり得ない。
そこで、精神学的なアプローチ、つまり考え方を変える(実際には、脳の中の前頭葉の状態を変更してやる、ということになるかな?)ことで少しはマシになるよう仕向けているんだけれど、それでも、健常者と同じ状態になることはあり得ないってわけ。
なので、いわゆる人並みの生活を送る事は、もともとできないんだなあ、なんて思っていたりもします。
それでも、何も出来ないわけじゃないんだけどね。

悦子が見る夢は…
ところで。
私の婚約者である悦子とは、遠距離恋愛中ではあるものの、インターネットなどの通信網が整備されているおかげで、毎日頻繁に連絡を取ることができている。
もっとも、私からは積極的には連絡をしていないところが、このあたりが自閉症スペクトラム障害の特性なのかな、などと思ってしまうんだけれど…。
そんな他愛のない話の中で、悦子は、時折、見た夢の内容を話すことがある。それも、私と仲違いしていたり、私が不倫していたり、私が悦子にとって嫌なことをやっていたりと、ともかく、私が、悦子が嫌がることをしている内容の夢が多いらしく、むしろいい内容の夢を見た、なんて話は、聴いた事がない。
もっとも、夢は夢だし、現実的なものではないんだけれどね。
まあ、中には、私との関係を続ける上で重要なのかも知れない不思議な夢を見た事もあったそうで、実際にその夢の内容に従って行動してみると、悦子が驚いたこがあったりする。このあたりの話も、機会があればいずれブログで紹介するとして。
その、夢の中で私が登場するだけでなく、すでに亡くなっている両親が登場したりと、ともかく、悦子にとって身近な人物が夢に出てくる、ということなのだそうだ。

私が見る夢は…?
一方、私は、夢を見る機会そのものがあまりない。気がついたら翌朝、目覚ましが鳴っている、という場合が多いね。
んでも、たま~に夢を見ることはある。
それも、実際には無いアニメや特撮ヒーローの番組を見ていたり、あるいはその主人公になっていたり。
また、車を運転している夢の場合は、その車の運転もかなりむちゃくちゃだったり。
まあ、夢は夢なのだから、その内容がいい加減であることは当然なんだけれど、そんな折。
とまあ、上記のツィート内容のような夢をふと見たりして、ここでふと思ったんだわ。
私の身内が夢に出てきたことって、ほとんどない。
むしろ、現実の生活の内容が夢に出てくることもほとんどないし、それに、悦子も夢に出てきたことは今まで一度もないんだわ。そのうち出てくるかもだけれど。

私の親の場合
ちなみに、私の母親の場合だと、母が幼い頃住んでいた家で、母の両親と、そして何故かその家があった時代には生まれてもいない、飼っていた2匹の犬のうちの1匹が登場して、「あんた死んだんじゃなかったの?」とか言ってた、とかいう話を、悦子と一緒にいた時にしていた。
うちの親は、そうして家族や親族の夢を見ることがあるようなんだが…
まあ、私も、一度だけ、その飼っていた犬達のうちもう1匹が出てきたことがあったと記憶しているんだけれど。
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↑こいつ。んでも、本当にうちの犬だったかどうかは、なんか自信がなかったりするんだけれどね。

自閉症の見る夢は…?
そんなこんなで、その天皇陛下が登場する夢を見たそのあと、ふと思ったんだわ。
もしかして、自閉症の特性を持つ者は、そうして家族や親族の夢を見ることは稀なんじゃないのかな、って。
自閉症、自閉症スペクトラム障害、アスペルガー症候群と、名称は色々あるんだけれど、そもそもその特性を持つ者は、興味を持つ対象が非常に限定されている。
私の場合は、特に人間に対して興味を持つことが出来ず、その結果、現在でも、人の顔と名前を覚えるのが非常に苦手。しかも、家族の誕生日すら覚えることができない。悦子の誕生日も、誕生日とは違う簡単な数字でのみ記憶していて、誕生日がいつかは、その数字から割り出さないといけないんだわ。つまり、何年何月何日、という覚え方をしていない、ってわけ。
そうした、他者に対する関心の無さってのが、夢の内容にも反映されているのではないか、と、ふと思ったんだわ。
もちろん、自閉症系統の特性も人それぞれ色々あるわけで、すべての自閉症の人がそうだ、なんてことは言ってはいないよ。それに、これは自分自身の経験を話しているだけだから。
その上で、様々な書籍や資料、自分自身の経験を照らし合わせると、見る夢にも影響が出ているんじゃないのかな、と、まあ、そんなことを思っただけの話です、はい。


私が発達障害と診断されて直近に購入した書籍のひとつ。
この本を読んで、私がいかに普通じゃないのかを自覚させられたって感じです。









どうも(*・ω・)ノ
前回は、発達障害者の「障害者」としての考え方(1)身体障害の共通項というタイトルで、まず、身体障害者に共通する事項について書いてみたわけだけれど、これは、こののちに続く事柄を説明するために、まずその例を挙げることで理解しやすくしたかったからなんだわ。
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もっとも、私の説明って、いろいろと回りくどいとか言われることもあるけど、んでも、これは、特定のだれかではなく、不特定多数に対して理解して欲しいからだったりします。
もっとも、発達障害者としての傾向もあるみたいだけどね。発達障害の症状の一つとして、「多弁」ってのもあるから。
んで、前回は、身体障害者にのみ焦点をあてたわけだけれど、今回は、身体障害者以外について、その共通項を掘り下げてみます。

身体障害者以外の障害者とは?
さて、障害者といっても、障害にはさまざまなものがある。
ここで、日本の法律のひとつである、障害者基本法から、障害者とはどのような者を指すのか、その文章を抜粋してみると。
 (定義)
第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
 一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
 二 社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。
とまあ、このようになってる。この法律が施行されたのは昭和45年、以降現在でも改定されているけれど、文面に、たとえば「っ」ではなく「つ」が使われていたりするところは、おそらく今後改訂されるんじゃないかな、とまあ、それはともかく。
この法律では、日本の法律の上での障害者とはどういうものなのかを指し示しているわけだけれど。
その、法律上で、障害者についてあ、大きく4つに分けられていることがわかる。
その4つというのは、
  • 身体障害
  • 知的障害
  • 精神障害(発達障害を含む。)
  • その他の心身の機能の障害
と、このようになってる。
最後の、心身の機能の障害というものについては、これは、上記3つに当てはまらないものであっても、その症状によっては疾病ではなく障害として認定する、という意味だととらえていいと思う。その上で、今回のこの話題では、「その他の心身の機能の障害」については取り上げないのでご容赦を。

精神障害と発達障害は同じもの?
で、ここで注意しなければならないのは、法律では、「精神障害(発達障害を含む。)」という表記がなされていることについて
このように表記されていることから、日本は、法律上、精神障害と発達障害は同一のものだととらえているのかと思われてしまうかもだけれど、実際にはそうじゃない。
発達障害者のための法律として、発達障害者支援法という、専用の法律がちゃんとあるんだ。
このあたりの話は、このブログでも一応書いたことがある。
ではなぜ、わざわざ「精神障害(発達障害を含む。)」なんて感じで法律上で書かれているかというと、その最大の要因ってのは、これは私の勝手な想像なんだけれど、精神障害者に対して適用できる法律は、そのまま発達障害者にも適用できるため、できるだけ早く発達障害者への支援を行うために、大幅に法律を改訂しなくていいようにするため、なんじゃないかなと思ってる。
なので、法律の上で、精神障害に発達障害を含むとして、発達障害者が円滑に支援を受けられるようにしている、これは法改訂の手続き上での問題で、いずれかの時代に、全体的な法改訂がなされたときに、精神障害者と発達障害者を別個に記載することになるのかもしれない。
ただ、発達障害者は、二次障害として精神障害を併発する可能性が非常に高く、この私自身もそうだった。なので、さまざまな制度を円滑に受けられるようにするためにも、法律上の文言については、このまま運用されていくことになるのかもしれない。

知的障害とは何か
そして、私が伝えたいことにつなげるために、知的障害についても触れておかなければならない。
知的障害と発達障害には、ある一定の関連もある、という表現をすると誤解があるだろうね。
実際に知的障害と発達障害を併発している方もいらっしゃるんだけれど、実はこの知的障害という定義については、なんかいろいろとややこしいみたい。
こちらは、Wikipediaの「知的障害」の項目から抜粋してみると、
知的障害(ちてきしょうがい、英語: Intellectual Disability)とは、
 1.知的機能に制約があること
 2.適応行動に制約を伴う状態であること
 3.発達期に生じる障害であること
の3点で定義されるが、一般的には金銭管理・読み書き・計算など、日常生活や学校生活の上で頭脳を使う知的行動に支障があることを指す。
と、このように記されている。
この文章を見るだけで、ぴんときた人もいるかもしれないけれど、要するに知的障害と発達障害の定義ってのは、けっこう似ているところがあるんだわ
とはいえ、私自身は、知的障害については勉強を進めていないこともあり、詳しく述べるのは避けるね。

精神障害、発達障害、知的障害の共通項
さて、と。
ここからは、精神障害と発達障害を分けて表記していくとして。そもそも発達障害の話をしているわけだし。
精神障害、発達障害、知的障害、この3つには、大きな共通点があるってのは、たぶんぴんとくるんじゃないかな。
つまり。
精神障害、発達障害、知的障害、この3つの障害は、いずれも、脳の機能に関する障害である、ということなんだわ
精神障害に関して言えば、こちらは先天性と後天性の、大きく二つに分けることもでき、かつ、回復する、あるいは「寛解」することはある。

寛解って?
寛解ってのは、聞きなれない言葉なので、ここで少し触れると。
寛解ってのは、完璧には治っていないけれど、完全に回復しているのに近い状態にまで回復している、って意味になる。
100%回復したことを全快、と表現するのに対して、たとえ1%でもまだ回復していない可能性がある場合に対して使われる言葉だ。
要するに、再発する可能性がある場合、この言葉が使われている、と思ってくれていいよ。

身体障害と、精神障害、発達障害、知的障害の共通項
そして、ここからが一番重要なこと。
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精神障害、発達障害、知的障害は、いずれも、脳の機能の障害である、ということは前述の通り。
そして、脳というのは、人間の体を構成する臓器のひとつでもあるんだ。
と、いうことは、だ。
身体障害と、精神障害、発達障害、知的障害は、それぞれ、人間が本来持ちえている機能が欠損しているという意味では共通している、と言える
そして。
前回の記事で、身体障害者の共通項として、次のことを挙げた。
健常者と同じことができない
特定の動作に関して、健常者では当たり前でも身体障害者には難しいものが多い
特定の動作に対して、道具あるいは人の手を借りる必要がある(あるいは、あきらめる)
そのため、実生活あるいは社会生活において様々な制限を受ける。
その制限のため、時間と手間が健常者に比べ余計にかかる。
その上で、今回の記事で一番言いたいことは、この、身体障害者の共通項ってのは、精神障害者、発達障害者、知的障害者にも同じことがいえる、ってことなんだ。
そもそも、この3つの障害は、状態はそれぞれ違えど、脳の機能不全によるもの。脳は臓器の一部であることから、この3つの障害は、脳の身体障害と言い換えることができる、といえる。

これからが本題、なんだけれど
普段、私たちは、常に何かを考えている。だけれど、その考えるという機能をつかさどる「脳」という臓器のことについては、さほど意識せず考えることができているよね。
実際にはそれだけじゃなく、なぜ人間は歩けるのか、手を動かすことができるのかとか、そんなことを常に考えながら動いている人なんて、ひとりもいないはずだ。
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車に例えて言い換えるならば。エンジンをかけてアクセルを踏めば車は動く。でも、アクセルを踏むと燃料がエンジンに送り込まれて空気と混合してプラグで点火されて云々…なんて考えながら車を運転している人なんて、一人もいないはずだ。
要するに、アクセルを踏めば車が動く、車が動くのは当たり前なんだけれど、それと同じように、自分たちが考えたり動いたりすることは、その人それぞれにとっては、もちろん当たり前のことではあるんだ。
そして、当たり前だからこそ、その当たり前なことに対して考えようとはしていない
だけれど、ひとくちに車といってもいろいろある。自家用車もあれば、特定の業務を行うための専用の車もあるし、それを運転あるいは操作する感覚も違っている。中には、初期不良あるいは故障している状態であっても、それでも動かしているものもあるだろう。
同じように、人間の体についても、それぞれ個体差はあれど、動くということそのものに変わりはない。んでもそれぞれ個体差があるわけだが…この、個体差という部分を取り上げて、発達障害者の中には、「障害」と言ってほしくない、という考え方を持っている人がいる、ってことになる、わけだけれど。

と、まあ、今回の記事は、とりあえずここまででおいておいて、次回は、この話題の締めくくりとして、私が伝えたかったことを書くつもりです。
その、伝えたいことってのは、場合によっては、誰かを苦しめかねない表現にもなると思う。それを理解しているうえで、あえて書いてみたかったもんだから。
と、いうことで、今回はここまで。



スマホの充電用に使用してます。まっすぐじゃなくL型になっていることで、断線しにくくなってるんじゃないかなと思って。
こういう小さな工夫みたいなものってのも、ものを大切にしにくい私のような者には有効だったりします、はい。

どうも(*・ω・)ノ
発達障害と診断されて以降、発達障害を中核とした様々な医学的あるいは精神医学的な学習を行っている私ではありますが、その学習範囲ってのは、とんでもなく広くなっていたりします。
study_daigakusei_man
特に精神医学系統からのアプローチを、自分が活用できる範囲で手広く行おうとしているんだけれど、これがいろいろとやっかいでして。
と、いうのも、自分自身の(脳の)特性を知ったうえで、どのようにすればうまくいくのか、ってのを検討しているんだけれど、その方法というのも三者三様。
それも、私の場合、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)とADHDの2つの特性を併発しているもんだから、この両方の学習を進める必要があるんだわ。
しかもこのふたつの障害は、その特性が相反するものが含まれていて、時には自閉症の傾向が、時にはADHDの特性が強く出る、という感じになってる。
question_head_boy
何がどのように相反するか、ってのは、またいずれの話にするとして。
自分自身の特性について、これからも勉強を進めていくつもりだけれど、その勉強を進めていると、自分で自分が面倒くさいと思ったりもする。まあ、しょうがないんだけどね。

発達障害は「障害」じゃない?

さてさて。
この、発達障害についてだけれど、この、発達障害の、「障害」という言葉について、イメージが悪いので使うべきではない、また別の言葉を使うべきなんじゃないか、って話がちらほら聞こえてきているんだ
だって、その、発達障害と診断された当の本人からすると、他人から見て障害があると言われても、自分にとっては、その障害があることが当たり前だし、そもそも脳の異常による障害であることから、一目でわかるような特徴みたいなのはほとんどない。
そのほかいろんな理由から、発達障害を、障害ではなく個性としてみてほしい、という感じで考えているみたい。
私も、発達障害と診断されるまで、私が発達障害者である、なんてわからなかったし、それに、私ではなく周囲の人たちのほうがおかしいとも考えていたからね(これは、私が、論理的思考に特化しているからで、かつ、冷静さを欠いて感情的になった上で物事を判断すると、必ず間違った結果になると若いころ勉強したから、ってのもある)。
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もっとも、発達障害についての理解を深めるにつれ、私と健常者とでは、ここまで差があるのかと、今でも愕然としてたり、悩んでたりはするんだけれど。誰が好き好んで発達障害者になりたいと思うか、って感じで、今でも自分自身に対していろいろと憤りを覚えてたりもするよ。
その上で、私なりの考えについて、あえてブログで書いてみよう、とまあ、こういうわけ。
もちろん、これは私自身の考え方だし、その考え方を押し付けるつもりはないんだけれど、それを踏まえ、他の発達障害者に対して、かなりきつい言い方をさせてもらおうとも思ってる
ただ、その意見を伝えるために、いろいろと話をしていかなければならないので、シリーズ化して話をしていくことにします。

そもそも、「障害者」って何?
さて。
発達障害ってのは、「障害」として区分けされていることはご存知のとおりだけれど、そもそも「障害」って何なのかについて、考えたことがある人って、どれだけいるのだろうかと思う。
ひとくちに「障害」、この場合は「障害者」と表記するほうがいいと思うけれど、ともあれちとこのあたりをまず整理してみたい。
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障害者の定義については、Wikipediaの、「障害者」の記事に、次のように書かれている。
障害者(しょうがいしゃ、英: disability, handicapped)は、何らかの原因によって日常生活または社会生活に影響の出るような制限を受けている人物のこと。 児童福祉法の規定の関係上、18歳未満の場合は障害児という場合がある。
この記事からわかるように、健常者と比べて、「何らかの原因によって日常生活または社会生活に影響の出るような制限を受けている」ことが、障害者の定義となっているね。
この、「何らかの原因」って部分に対しては、基本的に疾病や疾患はあまり含まれていないわけだけれど(重度疾患についても障害として認定されているものもいろいろとあるけれど、そのあたりの細かいことは今回の話には蛇足となるので割愛)、ともあれ、健常者と比較して、生活にいろいろと不便があるのは、これは「障害者」に共通していることだと言える。
また、Wikipediaの、「障害者」の記事には、WHOの定義の日本語訳が書かれている。こちらのほうが、ちと言葉は難しいけど、具体的で理解しやすいかも。
障害とは、身体の損傷、活動の制約、参加の制限が含まれる包括的な用語である。損傷は身体における機能もしくは構造に対するものを指し、活動の制約は個人が仕事や行動を行う際に直面する困難を指し、参加の制限は個人が生活する中で体験する問題である。したがって、障害は複雑な現象であり、ある個人の肉体が持つ特徴と、その人が生きる社会の特徴とがもたらす相互作用の反映である。
さて、ここで私が一番に伝えたいのが、上記用語における「身体の欠損」という部分についてなんだわ。

身体障害者は、ある意味見た目で判りやすい

まず、ここで、身体障害者に対しての上記説明を当てはめてみる。とはいえ、身体障害にも様々あって、目で見えるような状態の身体障害と、内臓疾患などの、見た目ではわからない身体障害の二通りある。
今回は、見た目でわかりやすい身体障害者を例に挙げさせてもらう。
なお、誤解のないように伝えておくけれど、身体障害者を例に出すのは、身体障害者を侮辱する等といった、社会的見地からする悪意は一切なく、あくまでも説明しやすい対象として選んでいるだけであることを理解していただきたく思う
さて。
身体の欠損として、見た目でわかりやすい例としてあげると、「手が欠損している」「足が不自由」というのは典型的な例だと思う。
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特に、車椅子を使用されている方に対しては、見た目で、「足が不自由なんだな」とすぐ判るはずだ。
この、足が不自由なことに対しては、どのように「活動の制約」があるのかはわかりやすい。要するに、「両足で歩くことが困難」なんだから。
ちなみに、足が不自由ということと、歩行が不可能というのは同じ意味じゃないよ。たとえば、洋式トイレに移動するくらいはなんとかなる、という方でも、車椅子の使用が必須であるのは、容易に想像できると思う。
ただ、残念なことに、上記のように、少しだけでも歩くことができれば、その場面だけを指差して、それなら車椅子なんていらないじゃないか、と言う人も、けっこういるんだわ。
この、上記のような、悪意の有無にかかわらず、その場面だけを見てそのように考える方は非常に多く、発達障害者も、そうした他者からの、「その場面しか見ていないだけで完璧にできていると考える」という行為には、非常にうんざりしているわけだけれど、それはさておき。
このように、身体障害者は、見た目で判断できる場合が多いだけでなく、その身体の欠損に対して、どのような不便があるかを、健常者は容易に想像ができるんだわ
もっとも、上記の表現は、正確ではない。健常者が容易に想像できる身体障害ってのは、たとえば、手足の欠損、視覚障害、聴覚障害の、この4つに限られているんじゃないかな。

足が不自由な方に共通していること

さてさて。
この、足が不自由な方に限定して、考えを掘り下げていくよ。
足が不自由な方といっても、どのように不自由なのかは人それぞれ
足がなんらかの理由で欠損している場合は、そもそも足がないのだから歩行できないというのは判るよね。
んでも、両足ともにそろっていても、脳や神経などの異状により、足が動かない場合と、わずかに力は入るものの、自分の身体を支えるだけの力が入らない場合、ほんのわずかであれば何とか歩ける場合などなど、いろいろある。
そんな方々が、移動をスムーズに行うためにはどうすればいいか。誰かにおぶってもらうこともあるだろうけれど、自力で移動する場合は、車椅子を利用することで、ある程度解決できる(杖を使用するなどの例もあるけれど、今回はその事例には触れません)
だけれど、あくまでも「ある程度」であって、二足歩行できる自分たちと同じように移動できるわけではないよね。
特に階段などの段差がある場合は、自力でその段差を乗り越えることはほぼ不可能となってしまう。なので、エレベーターなどが利用できない場合、誰かに手伝ってもらったり、あるいは手ではいずってでも、って感じにするしかない。
最近では、バリアフリーも、施設に関しては進んできてはいる。だけれど、一般道に関して言うと、たとえば交差点で横断歩道を渡ろうとした場合、横断歩道に一度降りて、歩道に移動するために、歩道にあるその段差を乗り越えなければならない。つまり、道路のバリアフリーに関しては、いまだに進んでいない、ということが言える。
それに、あくまでも座った状態での移動になるため、たとえばスーパーに行ったときは、高い位置にある商品を取ることが難しかったりもする。そのため、店員さんや、場合によっては近くのお客さんにとってもらうようお願いしなきゃいけない。
このように、普通に二足歩行ができる、(一応)私を含む健常者からすると、ごく当たり前のことが、足が不自由な方には難しい。そのため、車椅子などの道具を利用すること、そして誰かの手を借りることが必要となってくる。これは、健常者には、その必要がないことばかりだ
言い方をかえると、足の不自由な方は、足が不自由な分だけ、健常者よりも、実生活において、いろいろと不便がある、と言えるよね。

身体障害者に共通して言えること

さて、上記のように、足に障害を抱えている人を例としてあげたわけだけれど、これは身体障害者すべてに対して、同じことが言える。
手が不自由な方は、何かを持つことが難しい。
中には、先天性の障害により両手がない方もいるんだけれど。
とある方に関しては、映画化もされているので、ご存知の人もいらっしゃるのかも知れないんじゃないかな。
典子は、今
紀伊國屋書店



この、両手がない状態に関しても、どのように不便なのかは、容易に想像できるんじゃないかな。
同様に、目が不自由な場合、耳が不自由な場合に関しても、だ。
もっとも。
容易に想像できはするけれど、実際の大変さについては、その当事者でなければわからない
んでも、そうして想像できるから、その大変さを少しでも手伝えるよう、その時に応じて配慮あるいは手伝いをすることはできるよね。そのときだけ、であったとしても、ね。

余談・白い杖を使用されている方の場合
上記は、あくまでも、第三者からみても判りやすい障害だった。
同じ身体障害者でも、中には心臓や腎臓などの内臓器官に異常があるために身体障害者として認定されている方もいらっしゃり、そうした方は見た目では判らない。
また、これは私も最近知って驚いたことだけれど、白い杖をついている方は視覚に障害があるわけだが、だからといって完全に盲目というわけではないそうだ。はっきりとものが見えているわけでないけれど、ある程度の障害物の見分けはできるらしい。
要するに、白い杖は、それだけ目が不自由であるとアピールするツールでもあるわけだが、一方で、白い杖を使用しているイコール完全に盲目ではない、でも盲目じゃないから白い杖を使用してはいけない、なんてことはなく、むしろ使用すべきなんだそうだ。

ここまでのまとめ
ってなわけで。
いろいろと書いてきたけれど、身体障害者の特徴として、私は次の共通項があると考える。完全にまとめきっているわけじゃないけど。
  • 健常者と同じことができない
  • 特定の動作に関して、健常者では当たり前でも身体障害者には難しいものが多い
  • 特定の動作に対して、道具あるいは人の手を借りる必要がある(あるいは、あきらめる)
  • そのため、実生活あるいは社会生活において様々な制限を受ける。
  • その制限のため、時間と手間が健常者に比べ余計にかかる。
そして、こうして、健常者から見て不自由な生活を送ることは、その障害を負っている方にとっては、それは当たり前のことなんだ
この、「障害者にとっては当たり前」というのが、非常に大きなポイントだと私は思ってる
そして、このことが、私が、すべての発達障害者に対して伝えたいことにつながるんだけれど、その話は、次回ということで。





本題とは関係ないけど、このコミック、いろいろと面白かったもんで紹介しますね~




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