大人の発達障害と向き合う静葉ちゃんの試験室

静葉ちゃんが、適当にいろんなことを書いてますよ。

今回は、薬に関連する愚痴を。








とまあ、先日、Twitterで、上記のような愚痴をつらつらと書きまくった。
実際に嘔吐して以降は、かなりきつい状態だった。実際に動くことができなくなってしまい、座ってる状態で嘔吐や悪寒に耐え続けなければならず、扇風機の風さえ気持ち悪く思えるのに、嫁さんに、何をどうして欲しいと伝えることさえできなかったりする。
この、嘔吐した根本的な原因は分からないんだけれど…少なくとも食中毒ではないと思う。何しろ、嫁さんと全く同じものを食べているわけだし、嫁さんに異常がなかったわけだから。もっとも、二人とも、そういう状態になっていたら、さらに洒落にならない状態にはなっていただろうけれど。
当日、近くの温泉施設で、10分くらい水風呂に浸かっていたわけだし、それも原因の一端なのではと思ったけれど、嫁さんに送って貰った病院の当直医によると、その可能性はほぼないらしい。
その、薬の副作用への疑いを一番疑ってるのは、嫁さんなわけでして、服用している薬の副作用を色々と調べ、おそらくそうではないのだろうか、と言っていたりする。
実際に同じ薬を服用しているという方々の、インターネット上の感想も見させていただいたのだが、嘔吐で悩んでいる方も多くいらっしゃるらしい。
なので、現在、その疑いを持っている「ストラテラ」という薬の服用を、自己判断ではあるけれど中止している状態。
で、この、ストラテラという薬には、食欲減退という副作用もあるそうで、実際、服用をやめてから、少なくとも食欲は戻っている。もっとも、以前に比べると、食べる量そのものはかなり減っているのだけれど。
ちなみに、その、ストラテラを服用している時と、以前の状態あるいは現在の状態との、精神状態の比較については、あまり実感がもてていないため、服用するべきなのかどうかという判断は、自分ではできずにいる。
実際、服用している期間は、突然何かを思い出したりして混乱するようなことは、あまりなかったような気はするのだが、そもそも、服用しなければ、今まで通りの精神状態だというだけで、この状態で41年生きてきたわけなのだから、精神状態の安定化よりも、嘔吐などの体調不良を引き起こす方が問題なのではないかと思っている。
近いうちに、精神科医に、そのあたりのことを相談しなきゃいかん。

なお、ストラテラという薬は、注意欠陥多動性障害(ADHD)用の薬なのだが…何がどう障害なのか、自分でもよくわからないのだが…。ちとそのあたり精神科医にもう一度確認しとかなきゃなあ…。





発達障害ではあるけれど、様々な方面で活躍している有名人がいる、という話は聞くけれど、よく考えると、健常者で活躍している方々も多数いらっしゃるわけで、発達障害者そのものが社会的に特別というわけではない。
発達障害者の独特な思考パターンを持つその人が、たまたま、その分野で活かされた、というだけ。すべての発達障害者が、そうした活躍をするわけでもない
この、発達障害者を、さも神聖なものとする考え方については、私自身懐疑的ではあるのだが、ただ、少なくとも私と、私の周囲の人達(もちろん妻も含む)とでは、物事の考え方やとらえ方の基礎となっている部分が大きく違うことが解ってきている。
具体的な例については、今回の記事では、あえて詳細な言及を避けるが…何しろ、どのように言葉として表現すればいいのか、よくわからないもので…
例えば、あいまいな表現が苦手で、「お昼ごろにお邪魔します」と言われると、戸惑ってしまう。「何時にお邪魔します」と言われたら、その時間にあわせて色々と行動するのだが、しかし、「お昼頃に~」と伝えられると、相手が自宅へ到着するまで、他の作業ができず、そのままずっと待ってしまう、など。
要するに、コンピュータよろしく、きっちりと綿密に伝えてもらえるほうが、理解しやすい。
ただ、その、発達障害と診断された私からすると、健常者であっても、そうしたあいまいな表現より、きっちりとした表現のほうが、かえって解りやすいはずなのでは、と思うのだが。
この、時間に関する表現については、特に、私と、私の親との間で、よくトラブルになる。うちの親は、時間感覚が非常にルーズで、「もうすぐ…」と本人が言ったにもかかわらず、30分も待たされるのは、ざらなのだ。 こういう大雑把なところが、私は苦手なのだが、…発達障害でなくとも、健常者も苦手なのではないだろうか。

ところで。
健常者と、発達障害者との、思考能力の差というのは、うまく活かすことができると、大きな武器になる。
前述の、著名な発達障害者のくだりと矛盾する話にはなるが、発達障害者の独特の思考力は、一般社会において、その能力をうまく活かすと、健常者以上の能力を発揮することができるそうだ。
もっとも、発達障害者でなくとも、各個人の能力を最大限に活かす仕事につけば、そうでない者との差が出るのは、それは当然ではあるはず。
その、発達障害者の中でも、お世話になっている精神科医の見立てでは、私自身の頭脳は、平均以上の能力があるため、『もったいない』という表現をしてくれている。もっとも、おだても入っているとは思うが。
一方で、私の再就職については、『茨の道』という表現もしている。健常者に比べ、発達障害者の就職及び就労は困難なのだそうだ。
そのため、再就職の為に、精神科医を含め、数多くの人達の力を借りることになっている。
そして、この話は、発達障害だけでなく、障害を抱えている人達にとっても、参考になる話になると考えている。今後、そうした話も、ブログ上で色々と話をしていきたい。
 


という、気になるツイートを見つけましたので、紹介。
これはもう全くその通りでして、障害者と健常者との隔たりが、簡潔かつ的確に表現されています。

その障害を持たない健常者は、基本的に、その障害がどのように大変なのか、その知識を持ち合わせていません。
そのため、上記のようは偏見を。平気で、その症状で苦しんでいる人達に投げかけている。その言葉によって、相手がどれだけ傷つくのかすら解らない上で、です




ってことで、Twitterに、ちょっとしたネタとして、使用しているボールペンのひとつをアップしてみた。
カランダッシュというスイスのメーカーで、カランダッシュは、筆記具だけでなく、画材や皮革製品、またライターなどを世に出している。特に筆記具においては、1本約1億円の万年筆を世に出したことでも名を馳せたが…どんな人が使うんだろうね、あのペンは。
ちなみに、このエクリドールは、私が記憶を失う前から使用していたもので、当時の油性ボールペンは、個人的な印象なのだが、大半のインクが、その色がや書き味が、なんとなく気持ち悪かった。しかし、カランダッシュの油性ボールペンは、トラブルもなく、スムーズに書くことができていたため、油性ボールペンの中では、現在でもお気に入りだったりする。
近年、特に三菱のジェットストリームのような、低粘度油性インクが登場してはいるものの、ちとこちらは滑らか過ぎるかな、と思う。一応1本持ってはいるんですけどね、ジェットストリーム。

さて、表題に、とんでもなく怪しいタイトルをつけたのだが、今回は、お世話になっていた小村さんとの思い出も含めて、ちょっとした話をさせてもらう。
こと筆記具の話に関しては、この小村さんの話題も出させていただいているのだが、すでに故人となっている彼の、生前の希望として、「葬式も必要なければ墓もいらない。ただ、たまに自分のことを思い出してくれればいい」というのがあり、また、私が使用しているペンの大半は、彼から購入したものであるから、彼が、どのようなことを教えてくれたのか、というのも、からめて話をさせてもらえればと思っている。
なお、彼の生前の姿や、ビジネスの考え方については、以下のサイトで現在でも閲覧することができる。
http://www.e-misekaigyou.net/taikendan/vol35.html
すでにお店は無く、現在でも、その跡地には店舗が未だに入っていない状態だった。

その、彼の生前の話。
彼は、学生向けに、とある販促キャンペーンを仕掛けた。それが、今回の表題に繋がるわけなのだが、もちろん、怪しい話ではないので、ご心配なく。また、これは、筆記具を使用するにあたっての、ちょっとした心がけにも繋がる話にもなると思う。
勉学において、大切な要素として、いかに勉学中に発生する様々なストレスを回避するか、というのがある。
このストレスには、周囲の騒音や、突発的な様々な出来事も含まれるわけだが、そうしたストレスを軽減する方法のひとつに、スムーズな筆記があるわけだ。
つまり、筆記中のトラブルを、可能な限りゼロにすることにより、ストレスの発生を軽減し、勉強に集中するように仕向ける、とまあ、こういうことになる。
その、筆記のストレスとして、その筆記具の使い心地が挙げられるのだが、小村さんは、その筆記具に注目した。
学生が使用している筆記具、特にシャーペンについて、筆記中に芯が折れたりして、ノックする機会がある。この、ノックする機会を減らすことで、勉強のストレスを軽減できる…
現在でも、シャーペンといえば、0.5ミリのものが主流だ。現在でこそ、芯も、また、本体機能においても、折れにくい構造のものが出てはいるものの、当時はそのような、安価かつ高性能なものは出てはいなかった。
そこで、可能な限り折れにくく、また、筆記しやすいシャープペンシルを紹介しようとして、仕掛けたのが、カランダッシュ・オフィスシリーズの、0.7mm芯のシャープペンシルだった。そして、このシャープペンシルを手にした徳島の学生は、 実際に成績が向上していったそうだ。
何らかの形でシャープペンシルをノックしなければならないタイミングはある。筆記を開始するためのノックはともかくとして、筆記の途中で芯が折れてしまうと、あらためてノックしなければならず、その、ノックすることが、集中力を削ぐことになってしまう。その、芯が折れることを限りなくゼロに近づける為に、あえて太い芯のシャープペンシルを紹介した。また、シャープペンシル本体も、故障しにくく、かつ頑丈なものとして、白羽の矢が立ったのが、カランダッシュ・オフィスだった。
原理を説明すると、ざっとこんな感じになる。
また、太い芯を選ぶのも、もうひとつ理由がある。
こと筆記において、日本人は、細い筆記線で文字を書こうとする傾向がある。また、字を小さく書こうともしてしまう。それよりも、太く大きく字を書くことにより、後に見やすく、また、筆記の為の集中力を最小限にすることで、こちらも勉強へ集中することが可能となる。
もっとも、字を書く大きさをどうしようと、それは個人個人の好みだとも思うのだが、ともあれ、こうして、成績が上がるシャープペンシルとして、カランダッシュ・オフィスが、当時の徳島の学生に広まっていったという経緯があったわけだ。
ちなみに、カランダッシュのシャープペンシルを愛用した学生のひとりが、後に、エクリドール・アンモナイトをお小遣いで買いに来て、小村さんを驚かせたことがあった。 


なお、私が保有しているカランダッシュ製品は、前述のエクリドール・ミレニアムエディションと、オフィスラインの、計2本、それとまだ開封していないボトルインクが1本。予備の油性ボールペンリフィルも何本か手元に置いてある。
エクリドールは、細かい傷が無数についており、また、ノック部分もシルバープレートが剥がれて、ややみずぼらしいような感じになってはいる。が、私にとっては、戦歴の勇者のような印象を持っている。
ただ、最近では、ボールペンは、どちらかというとデュオフォールドなどを使用しているため、エクリドールの出番は減ってきている。
それでも、たまに日記や書類を書く際に使用すると、その重量感と、安定した滑らかな書き心地に酔いしれることができるものだ。

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発達障害という大きなカテゴリの中から、私の場合、アスペルガー症候群及び注意欠陥多動性障害という2つの障害について医師から指摘されている。うつ病及びパニック障害は、この2つの障害から派生した二次的なものだということで、前述した2つの障害に対する対策さえ取ることができれば、うつ病などは改善するであろうという見解だ。そのため、現在処方されている、向精神薬のうちの1つは、いずれ処方なしでも不自由なく過ごすことができるようになると考えている。
現在、精神科においては、私の精神障害について、さらに細かな判定を行うため、続けて検査を行う必要があるのだが、この検査については、幼少期における私の行動が焦点となっているため、幼い頃の記憶を失っている私自らが検査を受けることが難しい。そのため、私の母に、その検査に立ち会ってもらうようになっている。
発達障害と診断されてまだ日が浅い為、まだまだ様々な検査を受けなければならず、また、新しく薬も処方されていることから、その薬が実際に効いているのかどうかも判断しなければならない。
この薬の効き具合を調べるのが、なかなか面倒な作業で、特に向精神薬に関しては、自分自身の精神状態や気分がどのように変化するか、処方された本人が感じなければならない。血液検査で数値が出るようであれば楽なのだが、自分自身で薬の効き具合を判断しなければならない為、投薬量も、医師との打ち合わせも必要だが、患者本人の感覚により増減しなければならないようで、かつ、実際に本当にどれくらい薬の効果があるのか、日常的に自分自身の感覚を記録するなり記憶するなりする必要もあるため、自分自身に対しても、かなり気を遣ってしまう。
それだけではない。発達障害がどのようなものなのか、自分自身を知るという意味でも勉強しなければならないと考えてはいるのだが、しかし、発達障害そのものの資料はあっても、患者がどのように過ごすべきかという明確な資料はほとんど無いため、結果的に、自分自身でどうにかするしかない。
この、発達障害という症状を背負っている者は、対人能力に多大な欠点がある。自分自身が発達障害であると診断され、その症状を伝えられたとき、まさしく自分自身に当てはまっていることばかりで、なるほど、私が今まで苦しんできた原因がそれにあるのかと理解することはできた。だが、発達障害を負う者が、どのようにすれば他者と円滑なコミュニケーションをはかることができるのかという資料は、ほぼ皆無なのだ。
言い換えると、コミュニケーション能力については、どうすることもできない、といえるのではないだろうかとも考えている。
実際に、世の中に出回っている様々な資料は、発達障害を負う者に対して、どのように接すればいいのかという資料については数多く出回っている。
ところが、発達障害を追う者が、どのように人と接していけばいいのか、その対人関係に対する考え方の資料について、いまのところ、ほぼ皆無といっていい。
私が今悩んでいるところは、まさしくその点だ。
そもそも、今までの私は、人と接することを主とする仕事ばかり行ってきた。その仕事の中で、確かに、さまざまなトラブルに遭っている。どのようなトラブルがあったのかは、この記事では割愛するが、そのトラブルの大半は、私としては、理不尽なことが大半であった。
そもそも、健常者と、発達障害を抱える者とでは、そもそもの思考パターンに大きな差があり、こと対人関係においては、その点でトラブルに遭いやすい。
その最大の理由について。要するに、発達障害者は、素直なのだ。
お世辞や謙遜などを用いた会話は、日常会話としては当然のものではあろうが…たとえば、気候の挨拶で、「今日は暑いですね」と伝えられた場合、通常であれば、「そうですね、暑いですね」と返答するのが常識なのだろう。だが、私ならば、自分が涼しいと感じているならば、「私は涼しいですよ」と返答する。このように、思った事をすぐそのまま口にするのが、発達障害の特徴だ。なお、この時候の挨拶についての指摘は、妻から指摘され、はじめて解ったことだった。 
こうして、思った事をそのまま口にすることが、発達障害、特にアスペルガー症候群の特徴のひとつとなっている。そして、これが、対人関係において、トラブルになりやすい原因となっているわけだ。
それだけではない。こうした精神障害は、失礼な表現を含むが、あえて用例とし出させていただく…、手や足などを欠損するなどの身体障害者のよううに、 見た目で判断できるようなものではない。発言や行動において、ようやく解るもので、なおかつ、そうした障害について理解のある者でもない限り、その者が発達障害なのかどうかは解らないものだ。
つまりは、健常者と同じように接してしまうことにより、健常者から、不快に思われる。これが、発達障害者の社会的な特徴であり、そして、健常者から様々な攻撃を受けやすい原因ともなっている。
発達障害者は、一般的な人達とは、違う生物なのだ。だが、繰り返し述べるが、そうした生物であることを、健常者が理解することは、非常に難しい。見た目は同じ人間なのだから。
だからこそ、健常者向けに、発達障害者の接し方に関する様々な資料、その資料には一般に販売されている書籍も含むが、そうした資料はある。だが、逆に、発達障害者が、健常者といかに付き合うかという書籍は、今のところ見いだしてはいない。
現在、私が一番悩んでいる点は、まさしくその点なのだ。
今まで、発達障害と自覚することもなく、そもそもそのような指摘を受けることもなく生活をしてきた。23になって記憶を失って以降、家族と離れて一人で暮らすようになっているが、そもそも、現在でも家族の無理解に悩まされてもいる。それは最近まで続いている。何しろ、それまでお世話になっていた精神科医ですら、私を発達障害だと診断しなかったのだから。そして、私自身に、そうした対人能力に多大な欠陥があったにもかかわらず、その欠陥している理由をだれも考えることなく、家族を含めて私に攻撃的になっていたと言えるようだ。
他人のことはよく見える、自分の事は見えにくいとはよく言ったもので、人は、欠点がある部分を責め立てようとする傾向がある。少なくとも私にはそうした考え方はないのだが、他人のその欠点を取りあげ、あざ笑ったり攻撃したりする。そして、そうした欠点が、発達障害者には多い。攻撃を受けるだけの隙を多く持ってしまっているわけだ。
以前の職場で勤務していた時は、私が発達障害であることは精神科医ですら指摘していなかった。が、とある職員は、その可能性を疑っていたらしい。だが、当時の社内でのごたごたに私も巻き込まれてしまい、事態を解決するために私が奔走していたことがある。職場とはいえ、労働契約を締結してはいるものの、職場という形式の施設の利用者という立場であったにもかかわらず、だ。だが、その職場で、よりよく仕事ができるよう、自腹を切って様々な道具を買いそろえたり、また、アドバイスしたりして、その職場内で、円滑に仕事ができるよう配慮していたのだが、それが裏目に出ていた。後日、その、当時の職員から、とある謝罪を受けたりはしたが、何を今更…。その職員が苦しんでいるときに、様々な配慮をしたつもりだったのだが、結果的に裏切られてしまったという意識は今でもある。が、それを今言っても仕方がないし、そもそも、その当時の私を純粋に理解してくれる人は一人もいなかったのだ。仕方がない。

今、私が、快適に毎日を過ごすことができるのは、安心していられることができるから。
なぜ安心できるかというと、私を理解し、支えてくれる存在、つまり、私の妻がいるから。もっとも、まだ婚約状態であるし、広島からの通い妻状態であるため、彼女がそばにいるとき限定ではあるのだが。
彼女の言い分では、彼女が広島の自宅に帰宅してからしばらくの、私の落ち込みようはひどいものらしい。もっとも、私も、ある程度自覚してはいる。
 一方、妻がそばにいる場合、相手の会話の要点、つまり相手が実際に何を私に伝えようとしているのかを明確に私に翻訳してくれることや、私の言動を代弁してくれたりという、対人関係の、私の苦手な部分を埋めてくれる。実生活においても、一緒にいるときは、常に支えてくれる。
うまりは、私にとって、精神的な支えがいてくれるから、安心することができるわけだ。
だが、それは妻が私の病状を理解してくれているから。
初対面の相手に、その病状をまず理解してもらうことなぞ、非常に困難だ。
だからこそ、どのようにコミュニケーションを取ればいいのか、何らかの対策が必要だと考えているのだが…。





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